プロ野球界 ケガに泣いた選手 吉村禎章

ケガは選手生命につながる

日本のプロ野球界の歴史を振り返ると、類まれなる才能を持ちながらケガで人生が大きく変わってしまった人が多数存在しますが、代表格と言えるのは吉村禎章です。1963年生まれの彼は1982年に高校を卒業して巨人軍入りし、ルーキーイヤーこそ2軍生活が中心だったものの、2年目から1軍の試合で頭角を現し始めました。21歳になる3年目のシーズン(1984年度)には早くもレギュラーに定着して13本塁打を放ったほか、3割4分2厘という驚異的な打率を記録して脚光を浴びます。その後毎年、年間本塁打数は増えていき、1987年には30本塁打を記録しました。さらに打率も毎年3割以上であったため、原辰徳ではなく吉村禎章を4番打者に推す声も出始めていたほどです。

しかし、1988年7月に彼の野球人生を大きく狂わす出来事が起きてしまいました。外野手として守備をしていた時にレフトとセンターの中間エリアに飛んできた打球を捕球しにいき、センターの栄村選手と場内に戦慄が走るほどの大きな衝突をしてしまいます。それによって重症を負い、一時はほぼ間違いなく選手として復帰する事は叶わないだろうと言われていました。しかし、アメリカの名医のオペを受けて奇跡的に回復し、翌1989年秋には14カ月という驚異的なスピードで試合に復帰し、人々を感動させます。

ただ、復帰後の吉村選手は元々のパフォーマンスをなかなか取り戻すことができず、1軍には定着していたものの代打要員としての生活が続きました。結局、元の調子を取り戻せないまま1998年に35歳で現役を引退してしまいましたが、もしけががなかったら球界の歴史に残る選手になっていただろうと言われています。